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夕闇はそこまで降りてきていた。
まだ春になりきらないその季節、日暮れ時の海風は冷たく、ぼくの肩をすくませた。

少し前までのぼくは、詩や小説を書くことで生計をたてていた。
けれど最近、ぼくをうなずかせるだけの文章も、ぼくの心を震わせるほどのフレーズも、
ぼくのなかには浮かんでこなかった。
「あのこと」があってから、ぼくの世界は混沌として、ただ漠然と白く、眠ったままでいたーーー。

ぼくがその場所にたどり着いたのは、本当に偶然のことだった。
海沿いの道をただぼんやりと歩いていたぼくは、
無意識に冷たい指先を温める場所を求めていたのかもしれない。
太陽が沈み、空が昼と夜の境界を示すグラデーションを描くなか、
ぼくは海と反対側の斜面に温かみのあるオレンジ色がかった灯りをみつけた。
そして吸い寄せられるようにそこに向かう道を探した。
海沿いの道は少し先の信号で「海岸通り」と斜めに交差していた。
ぼくは今まで左手に見ていた海を今度は右斜め後ろに見るような格好でUターンし、
その場所の入口にたどり着いた。

そこは喫茶店のようだった。
というのも、何度も見回してみたが看板らしきものが一切見当たらなかったので、
本当に店であるのかどうかも疑わしかったのだ。
入るのに躊躇したぼくは、しばらく玄関先を通り過ぎて遠巻きに眺めてみたり、また戻ってみたりしてみた。
古い日本家屋を現代風にアレンジしたような木目調の一軒家で、
入口は少し歪んだすりガラスのついた引き戸になっていた。
ガラス越しに先ほど海沿いから眺めたオレンジ色の灯りが見えた。
大正時代に使われていたようなレトロモダンなペンダントライトに照らされたカウンターの中で、
一人の老婆がティーカップを拭いていた。ぼうっとその手元を眺めていたぼくは、ふと老婆と目があった。
老婆は笑みを浮かべながらこちらに向かって来て、扉を開いた。
慌てたぼくの口からは「あの……まだやってますか?」という言葉が突いて出てしまった。
ここが喫茶店かどうかもわからないのに。
そんな動揺を知ってか知らずか、老婆は「はい、どうぞ。」と笑顔でぼくを受け入れてくれた。
内心ほっとしたぼくは、その場所に足を踏み入れた。中は老婆一人きりでほかに人の姿はなかった。
入って左側にカウンターがあり、三席ほどの椅子が並ぶ。右側に向かい合わせの二人がけのテーブルがふたつ、
そして正面のガラス戸に沿って、海を見下ろすように隣り合った二人がけのテーブルがふたつ。
温かなそこは、音楽もなく静かで、ただ波の音だけが遠くに響いていた。
ときどき海沿いの道を走る車の音が入り交じる。
ぼくはカウンターから離れたほうの海を見下ろす席に座った。
老婆が水とメニューを持ってきてくれたので、
「ああ、ここは喫茶店だったのだな」とあらためて胸をなでおろし、それに目を落とした。
こわばった指先が少しずつ溶けてゆくのを感じながら、
さらに温かいものを求めて飲み物のページを追った。